【マネジメント入門⑪】ドラッカーはなぜマネジメントを体系化したのか
ドラッカーマネジメントに興味があるけど何から手をつけていいかわからない人のための連載「マネジメント入門」、11回目はドラッカー教授がマネジメントを体系化した理由を深掘りします。
ドラッカー教授は生涯で39冊の本を書いたと言われています。また、それらの内容は大きく分けると、社会生態学とマネジメントの2つに分類されます。
マネジメントについて初めて触れたのは1946年に出版された企業とは何か。3冊目の著書です。これはアメリカのゼネラルモーターズについての研究をもとにしています。その後、1954年の『現代の経営』、1964年の『創造する経営者』、1966年の『経営者の条件』等をへて、1973年にマネジメントの集大成とも言える『マネジメント』が出版されました。
人生の多くの時間をマネジメントに費やしたドラッカー教授。その原動力、想いは何だったのでしょうか。そのヒントとなる文章が『マネジメント<上>』にあります。
自立した組織をして高度の成果を上げさせることが、自由と尊厳を守る唯一の方策である。その組織に成果をあげさせるものがマネジメントであり、マネジメントの力である。成果をあげる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手だてである。
P.F.ドラッカー『マネジメント<上>』
マネジメントで有名になったため、経営学者とか経済学者という紹介のされ方をするドラッカー教授ですが、もともとの専門は政治学でした。ドラッカー教授は、マネジメントが全体主義に代わるものと書いています。これはいったいどういう意味なんでしょうか。
ドラッカー教授が生きた時代
ドラッカー教授の生まれはオーストリア・ハンガリー帝国時代のオーストリア。その後、第一次大戦を経て帝国が解体されオーストリアとなります。ドラッカー教授は、第一次大戦後のヨーロッパで若い時期を過ごします。
オーストリアで育ったドラッカー教授は、ドイツの大学に入学し、そのままドイツで働き始めます。当時のヨーロッパは第一次大戦の影響で、本来社会をまわす役割を担った成人男性の多くが戦死し、極端な表現をするなら、女性、子ども、老人で社会をまわさないといけない状況だったそうです。このような疲弊した社会で力を付けてきた思想が全体主義でした。疲弊した社会で何かにすがりたい、明るい未来を見たい、そんな世の中の声に応えたのが全体主義だったそうです。しかし安心をえる代償として自由を差し出したとも言えます。
さて、そのような状況でドイツではヒトラーが台頭してきました。ご存じの通り、ヒトラーはユダヤ人の迫害を始めます。その様な状況下のドイツで、ドラッカー教授はオーストリアに戻ることを決意します。ドラッカー教授はユダヤ系の生まれでした。その後、イギリスを経てアメリカに移り住むのですが、全体主義が蔓延するヨーロッパ社会に疑問を持ち続けていたようです。
全体主義に代わるもの
全体主義は間違っていると考えていたドラッカー教授。しかし、そう主張するのであれば、全体主義に代わるものが必要だと考えます。全体主義で奪われた自由と尊厳をどうやって取り戻すのか。いろいろと模索する中で注目したのが組織でした。
折しも、時代は組織社会へと移り変わっていました。社会に増えてきた組織というものが、それぞれ自立し、高度の成果を上げることが全体主義に対抗するものだと考えたのです。
組織が自立し高度の成果を上げるためにどうすればいいのか、必要なものやことは何か。この答えがマネジメントだったのです。
マネジメントを体系化した理由
前述の通り、マネジメントは全体主義に対抗するものでした。
ドラッカー教授は企業を儲けさせたい、コンサルタントとして有名になりたい、そういった理由でマネジメントを体系化したのではないのです。
ドラッカー教授がマネジメントを体系化した理由は、良い社会を作りたかったからと言えるのではないでしょうか。
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